親の小言とナスビの花は
昔から「親の小言とナスビの花は千に一つの無駄もない」と言われていますが、ナスの花が実を結ぶ確率は非常に高く、花は咲いても実をつけない、いわゆる徒花(あだばな)は非常に少ないようです。
この諺は「親の小言」という場合と「親の意見」と言う場合があるようですが、私には「親の小言」の方がしっくりと来るような気がします。
中学校時代から、始まった私の山野跋渉は、高校時代、大学時代と続き、やがて職業として続きますが、母は、いつも事故を気にしてくれていました。家に帰るたびに「人様の大切な、お子さんを預かって、もし事故にでも遭わせたら、取り返しが付かないことになってしまう。その時はどうするつもりよ・・・」と言っていました。「判っちょるよ。」と言い返していましたが、次第に家から足が遠ざかり、結婚してからは、年に1~2度、顔を合わせるだけになってしまいました。
先月、病院に面会に行った折りには、もうずっと寝たっきりで眼を開けることはありませんでした。そして先月の末についに他界しました。
若い頃から「いつか、茶室を建ててやるから」と言っていながら、ついに実現しませんでした。認知症が進む中でも「ヒロの奴は、また山に行ったのだろう。」とか「ヒロの奴は
山に入ったきりで帰ってこない。」とか言っていたようです。
「親の小言」も、もう聞けなくなってしまいました。
「親の小言とナスビの花は千に一つの無駄もない」と言う言葉がいつ誰の手で作られたものか定かではありませんが、聞けなくなった今から次第にその言葉の奥深さを感じるようになるのでしょう。97歳安らかな寝顔でした。
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